HOSHINOTAKASHI


      どこで生まれて、何してきたの ●

1951年11月8日
 敗戦で焼け野原となった東京―その6年後に、葛飾区立石(柴又の隣町)で生まれる。父・三郎(故人)は巣鴨、母・文子は浅草の生まれ。
 記憶はないが、長屋住まいの当時、いっしょに住んでいた猫(名前は知らない)と一枚の「おせんべ」を交互に舐めていたと聞く。


1958年4月
 港区立青山小学校入学。遊び友達は、二軒となりの三姉妹。「ミサオちゃん」「アキコちゃん」「サカエちゃん」。社宅の前に青山墓地があって、春には糸を通した針を持って、花びらを集めてまわった。
 60年安保を控えたこの頃、学校周辺にはいつもデモ隊がいた。クラスの仲間で「安保反対」と校庭をデモ行進。担任の女教師から、「子どものやることではない」と怒られた記憶がある。


1962年
 父が、叔父の町工場を手伝うために、一家は埼玉へ。戸田第二小学校に転校した。文字通りの零細会社。怪我で血に染まった包帯をしながらも、納期に間に合わせるため機械に向かう父の姿は、今もはっきりと覚えている。


1964年4月
 再び東京へ。世田谷区立烏山中学校入学。卓球部・演劇部に所属する。私の声は大きいとよく言われるが、それは「あ・え・い・う・え・お・あ・お」と毎日体育館で発声練習していたこの頃に、つくられた。

 修学旅行で、奈良・京都に行った時、男3人で行動していた僕らのことを、チラリチラリと見る女生徒2人組。「俺たち3人のうち、誰かに気があるに違いない」―男3人でそんな会話をしながらも、私は内心、彼女らの視線からして、ターゲットは私だ、という確信を持った。
衝撃的真実は、その日の宿、本能寺の境内にあるホテルで明らかとなる。2人組が私のところにやってきて、回りに誰もいないことを確かめるようにしながら、「星野君、ズボンのおしり、大きくほころびているよ」「!…」そんなこと、早く言ってくれ。期待・勘違い・羞恥…。彼女らとは、その後卒業までの一年間とても仲の良い友達になったけど、別々の高校に進んで、それでおしまい。
 高校時代に全面開花する自転車への興味はこの頃からはじまった。考えてみれば、父の実家は巣鴨で自転車のフレーム工場をしてたらしいし、母の実家は浅草では老舗の自転車屋さんだったのだから、運命的な流れだったのかもしれない。
 演劇と、自転車と、卓球と、漫画(石森章太郎のファンだった私は、烏口からケント紙まで、道具をすべてそろえ、投稿などもかなりしていた)に明け暮れた烏山中学の三年間であった。
 そういえば、卒業式の日、植木(秀才タイプ)、辻(天才タイプ)、星野(?タイプ)の三人で、「三年経ったら赤門で合おう」と、約束したっけ。すっかり忘れてたけど、あいつら今頃どうしているかな。おそらく霞ヶ関のどっかにいるに違いない。そのうち、捜してみよう。


1967年4月
 東京都立千歳ケ丘高校入学。世の中は、70年安保に向かって静かに動き出す。69年は、大学封鎖で、東大が入試を中止した。二年の時に生徒会長。サイクリング青年だったこの頃、全国のユースを渡りながら、一人旅を楽しんだ。一日がかりで登った阿蘇山道。次の日は、反対側のダウンヒルを一気に二時間ほどで、ほとんどペダルを踏まずに降りきる。あの快感は忘れられない。
 日の落ちた青梅街道を、「狼でも出るんじゃないかしら?」と心配しながら、心細く走る。向こうから一台のトラックがやってきた。小渕沢にある農家(友人の田舎)の主人が「きょう着くはずなのに、あまり遅いから」と、迎えに来てくれたのだ。自転車を荷台に乗せて、八ヶ岳のひとつ赤岳山麓の家まで走った。
 クラスは違ったが、よく遊んだ悪い仲間の一人に渋谷陽一がいる。彼は、高校生のころから、今とあまり変わらない。


1970年4月
東京都立大学
理学部(物理学科)入学


1974年
 同大法学部政治学科を中退し、身よりのない北海道へ。
 札幌ではじめに入った下宿(新琴似6条10丁目・4畳半・1万6千円)に面白い男がいた。労働省キャリアで北海道に出向しているという。「俺は東大法学部だから偉くなる。年上の部下たちと上手く付き合うには女房を吟味しなくてはならない。百回くらい見合いして官僚の妻にふさわしい女を選ぶ」が、口癖だった。
 数年後、下宿屋のおばさんに聞いた話では、「あんなこと言ってたけど、いつものように、洗濯物いっぱい詰め込んだバックを持ち、入りきらないシャツを何枚も重ね着して雪だるまのようになって、故郷の九州に帰る汽車の中で、向かい合わせた女性と意気投合し、一緒になっちゃったよ」だった。
 後日談がある。議員になってから、同じく労働省から出向してきている職員に、「田口(彼の名)さん知ってる?偉くなった?」と聞いた。「よく知ってます。私の先輩ですが、その後、省をやめて今、ご同業です」と。
 電話を聞いてかけてみると、「ハーイ、田口事務所でーす」。彼は今、長崎県議会議員をしている。


1975年
札幌市交通局入局

   この頃のことは、後ほど書きます


1987年
札幌地区労専従
 地区労での最初の仕事は、ベトナム報道写真家岡村秋彦の写真展開催だった。合成洗剤が環境に及ぼす悪影響を訴える「くらしを洗う連絡会」の事務局長もこのころ務めた。
反原発運動も、地区労のテーマだった。

   この頃のことは、そのうち追加します


1993年
札幌平和運動センター専従
 泊原発反対運動など、平和・環境問題などに取り組む。
 札幌市内の道議会議員と市議会議員の新人を発掘するのも仕事の一つだった。まさか、最後に自分で出ることとなるとは、当初、夢にも考えていなかった。


1995年4月
北海道議会議員初当選
民主党北海道道民運動局長

生涯初めての第一声

1999年4月
北海道議会議員再選
民主党北海道広報局長


2003年4月
北海道議会議員再選(三期目)
民主党北海道幹事長


2007年4月
北海道議会議員再選(四期目)
経済常任委員長

HOSHINOTAKASHI