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雪の下のホイールキャップ (2001.3/4) |
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時間とともに、ダイナミックに回復していく…若いときの二日酔いだ。
二度と朝なんか来なければ良いと思い、反省ばっかりで実行できない自分を恨めしく呪い、鏡の中の顔に嫌気がさし、それでも今日の授業を休めば単位が危うくなるのを思い出し、ようやく電車に乗ってはみても、周囲の人が誰も立派に見えて、消え入りたくなってしまう。
昔、僕はそんな生活を繰り返していた。
それが本物の病気による症状なら、そのまま救急車でもちっとも不思議ではない。
恐れを知らない若い肉体は、どんなにのたうち回ろうとも、半日もすれば回復し、そればかりか再び酒場に向かうだろう自分を予期していたものである。
誉められた生き方ではないし、今やれといわれて出来るものでもない。
ただ思い出されるのは、体調が予想通りに復活していく喜び、つまり、裏切らない循環のリズムを持ち合わせているという安心感だった。
そんな体験と重ね合わせるのは不謹慎だろうか。季節のリズムは、今年も裏切らずに春を運んでくる。
残念ながら春の予感は、汚いところから始まる。雪の下から、次々といろんなものが出てくるからである。
煙草の吸い殻、カップ麺の容器、犬や猫の糞、ジュースの空き缶、朽ちるまえに冷凍されていた大きな落ち葉、カラスに荒らされたゴミステーションから飛んできてそのまま「保存」されていたと思われる数々の生活のゴミ…。
人の手が加えられていない雪原と、見間違えるほどに一面凍てついていた冬の札幌。すべてが覆い尽くされ、それ故にすべての汚れが消え失せ、許されてしまったかと錯覚をさせた冬の札幌。
しかし、現実は目の前に横たわっている。
国政が混迷している。
かつて、「みそぎ」と言う言葉が幅を利かせたことがある。政治汚職で失権しても、次の選挙をクリアーすれば、復権するという言い分だ。
ゲームセンターではあるまいし、コインを入れてリセットすれば、何度でも生き返るのであれば、日本はゾンビ王国になってしまう。
二日酔いは別として、病気は原因を取り除かなければ完治しない。
雪の下から出てきたゴミも、「また冬になれば、雪で隠れるさ」と言ってしまえば、本当の春は迎えられない。
政治についても、まったく同じ事があてはまると、国民の誰もが知っている。
ところで、雪の融けはじめた我が家の庭から、ボコボコになったホイールキャップが出てきた。
平成と共に活躍している愛車コロナは、そんなものなくても、何処だって走っていける。
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