HOSHINOTAKASHI


サミットとトースター


 
24年ぶりにトースターを買い換えた。焼けあがったパンに、ミッキーマウスの顔が出てくる可愛いやつだ。しかし、それ以外は、不思議なくらい前のものと同じ。おそらく、製品の機能としては完熟の域に達しているのだろう。

  サミットが終わり、沖縄は再び「基地の街・沖縄」に戻った。
  薩摩に侵略されて以降、琉球民族の歴史は、犠牲の歴史もであった。先の大戦では、日本軍のたてとされ、最後は自決を強要された。戦後は日米安保条約の「生け贄」同然の扱いをされ、ベトナム戦争では、北爆のため飛び立つ戦略爆撃機B52を毎日見上げながら子どもたちは育った。
  街の中に基地があるのではなく、文字通り、基地の中に街がある―そんな沖縄について、中途半端な知識の私が物を言うこと自体、はばかれるが、彼らの生活は私たちの想像を超えるものだろう。

  戦後の矛盾と犠牲を、一手に引き受けてきた沖縄県民は、サミット沖縄開催が決まったとき、とても複雑な気持ちだったに違いない。しかし、税金が投入されることによる地域振興に期待を寄せ、さらには、基地に悩む実態を各国首脳に直接見て欲しいという気持ちから、小渕前首相の沖縄招致を受け入れたのだと思う。

  結果は、彼らの気持ちを裏切る。クリントン大統領は、会議終了後直ちに帰国してしまい、肝心の基地問題はたなざらしにされたままであった。850億円の国費は投入されたが、世界のマスコミからひんしゅくを買った豪勢な会場施設は今後どう活用されるのか、地元のお荷物施設になりはしないかという心配がつきまとう。また、埋め立てられた海岸、根こそぎ抜かれた街路樹は、二度と返らない。

  森首相のパフォーマンスに付き合わされた沖縄県民という感を否めないサミットであった。

  ゆっくりと時が流れ、いらぬ機械化を求めずに手作業でサトウキビを刈り取っていく、そんな沖縄の文化や伝統に、札束片手に土足で踏み込む権利を、森さんが持っているとは、とても思えない。
  沖縄の戦後は、未だ終わっていないのである。

  私が育った実家も、物もちがよい。なにせ当時の屑籠がまだ、健在なのだから。
  四半世紀にわたって、一つのトースターを使い続ける家も少ないかもしれないが、それはそれで生き方と言える。

  沖縄には沖縄の暮らし方がある。どのような暮らし方を選択するかは、そこの市民が決めるべきだ。
  問題は、その選択肢を政治が狭めてはいけないということ。在沖米軍の早期整理縮小そして撤退によって、はじめて沖縄県民は、基地に頼らない、自らの意思に基づく暮らし方の選択が出来るのだろう。

HOSHINOTAKASHI