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口の中の妖怪 (2001.7/22) |
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魚を食べながら、僕は二つのことに感心する。
ひとつは、口に運ぶとき見落としてしまった小骨を、舌が見事に発見することだ。どんなに小さくても必ず見つけ出す、とても有能なセンサーを人は持っている。
まるで、カバンの中のものを全部まる裸にしてしまう、空港にあるあの機械のように。
そしてもうひとつは、これがすごいのだが、一方では口の中の食べ物がまんべんなく噛まれるように、カクハン棒の役割をしながら、他方では、ちん入した異物である小骨を徐々にじょじょに移動させ、ついには待ち構えている上下の唇に引き渡す、舌の器用さである。
閉じられた口の中の営みのため、自分の持ち物でありながら、生まれてこの方その実際を見たことはないが、おそらく目を見張る仕事ぶりなのだろう。
もしかしたら舌は、光の届かない闇の中でドロ沼をさまよう妖怪かもしれない。
だがそれは、愛すべき、そして敬服すべき妖怪である。
小泉首相の人気が高い。
「改革には痛みが伴う」と彼は言う。しかし、その痛みとはどれほどのものなのか、痛みをとり除くためには何をすればいいのかは、ついぞわからない。
不良債権の処理は大量の失業者を生み出し、地方交付税の削減は住民サービスを低下させ、一律的な公共事業のカットは都市間格差を拡げ、有無を言わせぬ自治体合併は、様々なひずみを過疎地に誘発するだろう。
小骨なんかじゃない、太い骨が喉から食堂、胃袋にいたるまで、突き刺さることになる。
そこから流れる大量の血は、痛みどころか人を死においやりかねない。
改革は必要だ。しかし止血剤を用意せず、あるいはあらかじめ小骨を入り口で取り除くセンサーの準備をしないままの改革は、結局そのつけは弱い立場の者に押し付けられることになるのだ。
ある朝、魚のフライを食べながら、よく出来た舌の職人技を楽しんでいた。なに気なく右手でつかんだロールパン。「あちっ」。その瞬間、回路がパニックとなり、口の中の鮭は、骨もろとも喉へ転がり込んでしまったのである。
完璧に近い芸術的なテクニックも、ほんのささいな、しかも不意の仕打ちに適応できない、繊細さに支えられている。 |
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