HOSHINOTAKASHI


けったいな関西弁 (2001.9/26)


「おおきに」。僕は、関西弁で答えた。

はじめての北海道で、はじめてアルバイトをしたとき、お世話になった先輩に、お礼を言ったときのことだ。

先輩だからといって、いつも敬語ばかり使ってれば、いいというものではない。「他人行儀なやつだ」との烙印を押されたら、そのイメージをチェンジするのに大変な思いをする。
そこで、仲間意識がにじみ出るような言葉づかいが重要になる。しかしこの場合、地方によって独特の言い回しがあるわけで、それを知らないよそ者にとっては、極めてやっかいである。

敬語でもなく、方言を駆使した仲間言葉でもない、そんな表現はないものだろうか。苦肉の策が、「関西弁」であった。人なつっこい表現で、敬語と仲間語が混然とした響きをもつ「関西弁」が、僕は、好きだ。
恐れを知らない青年は、その時、昔よく行った京都の人間になりきる。

「ありがとうございます」でもなければ、「どーも、どーも」でもない、「おおきに」は、とても役に立った。
それは、言葉であるよりも、僕の気持ちを伝える「心のつぶやき」だったのかもしれない。

議会では、住民投票制度の導入をめぐって民主党と自民党が、ぶつかりあっている。
自民党の主張は、「道民の意向は、議員に託されているのだから、あらためて住民投票をおこなうなどは、議員として自殺行為だ。よって反対」となる。
だが道民の価値観は、どんどん多様化していて、そのすべてを一人の議員に託することには、しょせん無理がある。
しかし、「あなたに、すべてまかせるから、しっかり議会で仕事して」と支援者から言われれば、ついつい、その気になってしまうのも、わからないではない。

言葉のあやが、ここにある。
「そんなことまで、任せたつもりはない」という、心のつぶやきを聞き取る能力は、そう簡単に開発されない。
こうしたつぶやきを、封じ込めてしまうことこそ自殺行為なのだ。

時代が変わる中で、議会制度という間接民主主義だけでは不十分な部分が生まれてきている。それを埋めるものとして、直接民主主義としての住民投票制度導入の流れは、近い将来、全国の本流となるだろう。

さて、札幌に住みはじめて二ヵ月ほどたったある日、友人と新宿で飲んだ。どうも様子が違う。今まで意識したことがない、「東京弁」を彼が使うのだ。

そして、わかった。違ったのは相手ではなく、こっちだったのだ。
「星野、お前はほんとに順応性のある奴だな。もうすっかり北海道弁になってるぞ」 

HOSHINOTAKASHI