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はじけたボタンは、宝物 (2001.8/9) |
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寮生活をしているのだろう。
明日の練習のことに話の花を咲かせながら、丸刈りの高校生たちが脱衣所を占拠していた。野球部のようである。
アイスクリームのおかわりをしようと、百円玉をもって番台の前に立つ百八十センチはありそうな童顔。なんとなく困った様子なので、見ると今日もおばさんは熟睡だ。まだ首がすわっていない赤ん坊のように、頭が垂れている。
夏の甲子園。サイレンと同時にホームベース前まで駆け寄る姿は、何十年経っても変わることなく、すがすがしいものだ。
日本人はこの期間、郷土愛に目覚める。出身地のナインが敗退すると、近隣の学校を応援し始めるのだから、なんとも不思議である。
テレビに映る試合だけではなく、そこに至る無数のゲーム一つひとつにいろんな物語があるのだろう。それら全部の一所懸命さに心から拍手を贈りたい。
同時に、過酷な場面もついてまわる。
超ファインプレーでチームを勝利に導いた者は、学校の英雄であり、地域の誇りとなり、何よりもその後の彼の人生の励みとなるだろう。
逆の場面はどうだ。
無責任な郷土愛者たちは、少し時がたてば一人の選手の失敗など忘れてしまうに違いない。だが本人は、いつまでもつらいものがある。
心ない「応援団」による「あいつのお陰で負けたんだ」なんていう軽口はつつしみたいものだ。
小泉内閣の支持率が下がり始めている。
「参院選が終わるまでは」と、おとなしくしていた自民党内の改革反対派が、さまざまな動きをしはじめ、政権の目玉だった田中真紀子外相の辞任も秒読みにはいった。
国民の期待が大きかっただけに、大騒ぎしてネズミ一匹出てこなかったときの、しっぺ返しは想像を超えるだろう。心配なのは、小泉政権への幻滅が、再び政治そのものに対する絶望にも似た不信につながりかねないことである。
小泉ブームを支えた国民が、「無責任な応援団」だったとは言わない。しかし、政治家をアイドルのように扱ってしまったことが、結果として日本の改革を遅らせるとしたら、何とも皮肉なことだ。
高校時代に野球をしていた友人が、地区予選で負けたときにユニフォームからはじけたボタンを、今でも持っているという。彼にとってそれは、大切な「宝物」なのだろう。
「ボタンを押す」という表現は、しばしば物語が新しい展開を見せるときの例えに使われる。改革劇第二幕のボタンを押すのは、いったい誰になるのか。
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