|
穴のあいた、お椀 (2005.1/1) |
|
|
銭湯につかり、手のひらですくったお湯を力いっぱい顔にかける。水しぶきが飛び散るが、いつもほとんど客のいない洗い場だから、何をやっても誰にも迷惑をかけることはない。目をつむって一日を思い返す。
ここが分かれ目だ。
やり残した仕事のことなんかが頭に浮かんだらもうだめ。誰かが見ていたら、沼の底に潜んでいた河童に引きずりこまれたのではないかと心配される勢いで、一度お湯の中に頭までつかったあと、ザバッと立ち上がりそそくさとあがるしかない。
この時間から、人に会って仕事の続きをするわけにはいかないけれど、優雅に風呂遊びをしている気分はふっとんでしまうのである。
「ああ失敗した。なんで忘れてたんだろう」と悔やみつつ、日曜日の楽しみは来週に持ち越すことになるのだ。
ところが目をつむり、だらしなく伸ばした手足が、ゆらゆらと動くのをぼんやり感じ始めたらしめたもの。気になることは、汗が目に入るか入らないかなんていう、どうでもいいことくらいだ。
季節も場所も、脈絡なくいろいろな光景がよぎっていく。出張の折り、無意識にめくっていたグラビアがヒントだったり、ひょんなことで開いた記憶の扉の奥に秘められていたものだったり、きっかけはそんなところか。
突然の鎌倉。すべての音を、高く伸びた樹木が飲み込んでしまうのだろう、あくまで静かだ。山菜ソバでも食べてみよう。このまま時間が止まってくれればいい。
その時ガラッとドアが開き、タオルを持ったお客さんが入ってきた。常連客であり、目で挨拶をするとともに、私の風呂遊びは終わる。
※ ※ ※
ふと、お湯の中に浮遊物を見つけた。ゴミだろうか。もうあがるんだし、どうでもいいと思いつつも、気になり始めた。「よし、これをすくい取ってから出よう」と、両の手のひらをあわせてお椀をつくり、ゴミの真下にもっていった。そーっと水面に向かう。ところがどうだ、手の縁が水面から出ようとする瞬間、なんどやってもこぼれるお湯といっしよに、ゴミは逃げていく。水流が外に向かっているのだ。それならと、右の小指と左の小指の間に小さな穴をあけてみた。お椀の底が割れてる感じだ。
するとどうだ。お湯から出る瞬間、水流は内へ向かい、みごとゴミを捕まえることが出来たではないか。
※ ※ ※
党の幹事長になってから、様々なテーマで人とぶつかることが多い。同一選挙区への複数候補擁立もそのひとつだ。私はこんな性格だから、論理的に乗り切ろうと試みる。しかしこれがなかなかうまくいかない。論議は正面からすればいいというものでもないのだろう。
手のひらでつくったお椀に穴をあけるのと同じように、私自身に穴をあけることで、流れを変えることも必要なのかもしれない。
※ ※ ※
大事なことを忘れていた。手の縁がお湯から出ると同時に穴を閉じないと、ゴミは上から逃げるかわりに、下からすり抜けてしまう。 |
|