HOSHINOTAKASHI


雨の日は、軒下で (2001.5/21) 


 あれは何曜日だったろうか。あるいは毎日の放映だったかも知れない。テレビがまだまだ珍しかった時代。楽しみにしていた番組の一つに、「バス通り裏」があった。
 十朱幸代、17歳。素敵なお姉さんだった。
 題名の通り、バス通りは生活の一部であったし、停留所は見知らぬ人に道を教える際の愛着ある基準でもあった。
 バスは人の暮らしになくてはならない存在だったのである。

 あの可愛らしかった十朱さんが、「マディソン群の橋」で主役を演じている。人も時代も移りゆくのだ。彼女もベテランの域に達している。

 
ベテランと言えば、キャリアを積んだキャディさんは見るところが違う。
 風はないと思っていたのに、「ほら、高い木の葉がウラを見せてるでしょ。上空は、かなり強い風ですよ」と言う。

 たいしたもんだ。葉っぱの表情で、自然を推し量っている。

 道庁北門前にある事務所でのこと。誰かが突然、「みんな見て」と小さく叫んだ。
 目をやると、窓の外のプラタナスが、いつもとまるで違う表情で輝いていた。パソコンに取り込んだ画像の彩度を、一気に最高まで切り替えたような感じである。あるいは、観光地のお土産やさんによくおいてある、キラキラ光る風景画のようでもあった。

 自然は、ときどきこんな悪戯をする。
 きっと、あつい雨雲が切れ、そこから差し込んだ思いがけない陽光が街路樹を直撃したために起きた現象だろう。
 居合わせた人の目に、しばらく焼き付いた。
 それにしても自然は、人の住まない山奥だろうが、都会の真ん中だろうが、分け隔てなくいろんな変化を見せてくれるものだ。

 と、次の瞬間、音をたてて雨がやってきた。窓の下の人々は大慌てでビルの軒下に。まったく知らない者同士が、雨を逃れて肩を寄せ合う光景は、いつ見ても微笑ましい。

 さて、大阪人と東京人では、雨の日のバスの並び方が違うという話を聞いたことがある。

 小さな屋根のついたバス停の中に、おしくら饅頭のようにゴチャっとかたまってバスを待つのが大阪人。順番が分からなくなってトラブルが起きるのを未然に防ぐため、濡れながら一列に待つのが東京人だと言うのである。
 言い得ている気もするが、本当のところは知らない。

 マイカーが街にあふれ、公共交通としてのバスが苦戦している。
 雨の日は軒下で肩を寄せ合うような、そんなほのぼのとしたものをバスに感じる。
 こんな気持になるのは、バス通り裏を見ながら笑い、そして子ども心に涙を流した世代だけではないはずだ。


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