東京に雪。首都高速の昇り口で、立ち往生する車の群れが目に浮かぶ。
学生の頃、理学部図書館で夜間アルバイトをしていた。
理学部と向き合うかたちで、工学部の校舎がある。これは五階建てなのだが、どの窓にもカーテンはない。夜間部があるので、白衣の学生や研究生がそれぞれの部屋で忙しそうに、あるいは暇そうに、机に向かったり実験をしているのが丸見えである。
私は、その光景をぼんやり眺めるのが好きだった。まるで何重にも重ねられた水族館の水槽を覗くのに似ている。
魚たちは、自分たちの床下や天井上、あるいは両隣りに別の世界が存在していることなど、露とも知らないのである。
二十歳を過ぎたばかりの私は、無数の窓に目をやりながら、生意気にも「人間も魚も、たいして違わないのかもしれない」などと思ったものだ。
ある夜、世の中から音がなくなってしまったのではないか、と思われた。
窓に目をやると、向き合って建っているはずの工学部校舎が見えないほどに雪が降り続けているではないか。すぐさま屋上へ。「息を飲む」とは、こういうときに使う言葉だろう。住宅街にあるため、いつもは街の灯りでいっぱいの周囲が、雪原になっているのである。
ぼんやり見える人家の灯は、野営する軍隊のランプのようだ。
革命の勃発を知り、亡命先のスイスから封印列車に乗り、雪のペトログラード(後のレニングラード)に降り立ったレーニンにでもなったような、そんな昂揚した気持ちを、東京に雪が降ると思い出す。
札幌もこれから本格的な積雪期間にはいる。いやな季節だが混乱はしない。しかし東京を不意打ちした雪は、人々を慌てさせている。それほどに日本は地域によって条件が違うのだ。
道路網をはじめ、社会基盤の整備が飽和状態になった首都圏の物差しを一律に地方にあてられたら、たまらない。
国が生き延びるために地方が切り捨てられるとしたら、本末転倒である。
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あの時は思いが至らなかったが、向こうの校舎の一室からも、私と同じように、こちらの「水族館」に目をやっていた学生がいたはずだ。
そして私も、世界を知らない一匹の魚だったのである。
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