HOSHINOTAKASHI

百億年の彼方に


  台風が過ぎ、星空を見ながら、「悠久の時」に想いを馳せる。

  まず、宇宙規模の時の流れ。
  宇宙は百億年から二百億年前に、ビッグバンによってスタートした。「それ以前に何があったのか」という疑問は、時間そのものが、ビッグバンを起点としているため、意味のない質問である。
  膨張を続ける大宇宙が折り返し点を迎え、今度は収縮をはじめ、いつの日か再び「無」に帰するとしても、数百億年先のことだ。

  次は、地球規模の話。
  地球の誕生は約50億年前とされている。その後、奇跡ともいえる、いくつもの偶然が重なることで、およそ30億年前に単細胞生物が出現。私たちの直接の先祖、縄文人が登場するのは、古く見積もっても1万年程度前のことだ。地球誕生を一年の始まりとし、現在を一年の終わりとする「地球カレンダー」によれば、人類はなんと、12月31日の23時11時59分過ぎに、やっと姿を現したことになる。

  その次は、歴史の単位。
  例えば古代中国で、腐敗を極めた後漢王朝「正常化」運動に始まる三国志の時代は、数多くの豪傑や英雄が登場するわりには、劉備の蜀、曹操の魏、孫権の呉が滅びるまで、全体でたかだか60年に過ぎない。
  日本でも、戦乱の世を制し、封建政治による徹底した差別支配によって揺るぎない幕藩体制を誇った徳川時代も、せいぜい250年。ましてや戦後民主主義はようやく55年になったばかりだ。

  そして最後に人間の一生。
  日本は世界一の長寿国だが、それでも百歳を越える人は希である。無限とも言える宇宙時間に比べたら、一瞬に過ぎない私たちの一生。その一瞬を人は、懸命に生きる。自分の生き方に責任を持ちながら。

  ところで、「責任とは結果に対して負う」と考えがちだが、実は、未来に対する責任こそ大切だ。長い歴史に比べ瞬く程の数十年間、人間は原子力発電に手を染める。しかし、そこから出される、使用済み燃料としての放射性核廃棄物が、将来数万年にわたって環境に影響を与え続けるのだから、何とも言えない。
  おそらくは人類そのものが存在しないだろう、そんな未来に、「パンドラのプレゼント」―洒落にもならない。

  今だから正直に言うと、学生の頃、私は青年物理学者を夢見ていた。ところが、宇宙の始まりや終わりなどに想いを馳せているうち気が遠くなってきた。空恐ろしくなってウイスキーを飲んで、ごろ寝をして、目が覚めたら、そんな夢も一緒に覚めていた。

HOSHINOTAKASHI